川崎鶴見臨港バスのエース4人が語る「バス運転士」の魅力(前編)―自分はこうして運転士になった―
バス運転士を目指したきっかけは?
――皆さんが川崎鶴見臨港バスに入社したのは、どんなきっかけからですか。
A:実は、父が別のバス会社にいたんです。最初は同じ会社に入ろうと思ったんですが、臨港バスの後ろにあった「乗務員募集」という広告を見たのがきっかけですね。
B:僕も、実は最初は別のバス事業者に入ろうと思っていたんですが、将来は貸切バスを運転したいと思っていて、臨港バスは当時貸切の台数が多かったので。
C:実は、バスの運転士は2番目の夢だったんです。1番は電車の運転士(笑)。でも鉄道会社は落ちまして。その時、臨港バスの後ろに運転士募集の広告が出ているのを見まして。
D:バスの前は長距離大型トラックの運転手をやっていたんですが、家族の都合もあって地元でできる仕事にしたいと。その時、たまたま臨港バスに運転士募集の広告があったので、これだと思いました。
――バスの広告がきっかけだったということで、運転士募集広告の効果がわかります(笑)。
今なら皆さんも「バスギア」をきっかけに入社されていたかもしれませんね。
さて、臨港バスでは入社するとまず「乗合運転士」として路線バスを運転するとのことですが、入社当時の思い出をお聞かせください。
A:自分の最初の車は、当時臨港バスで一番古い車でした。シフトレバーが棒のタイプ(ロッド式)で、床は木で。
B:僕は、最初の車が臨港バスで初めてエアコンが入ったという車だったんですよ。銀色の日野の車でした。でも当時はもう古かったです。重くてギアが入らないんですよ(笑)。
A:担当の車は1年ごとに変わっていったんですが、だんだん新しい車になっていくんです。あれが嬉しかったですね。
B:新しい車になると嬉しかったですね。古いのは重かったですから。でも、古い車も喜んで運転してましたね。
A:確かに古くて重い車でも、やっぱり自分のバスは好きでしたね。いつもすごくきれいにしていました。自分の車はやっぱり愛着が湧くんですよ。
一同:そうだねえ。
(注:現在は、川崎鶴見臨港バスの路線バスは運転士が毎日同じバスを運転する「担当制」ではなくなっています)
厳しい先輩の教えは今も生きている!
――やはり、最初に担当した車両にはさまざまな思い出があるんですね。では、皆さんにとって今までで一番思い出深いバスはどんな車でしょうか?
B:僕はやっぱり一番最初の乗合の車(路線バス)ですかね。バスってこういうものなんだ、お客様を乗せて走るとはこういうことなんだというのを知った車ですね。
C:自分は最初にフィンガーシフト(指先の力だけで楽にシフトチェンジが可能なシフトレバー)の車に乗れたんです。その翌年からロッド式シフトレバーの車になったんですが、やっぱりバスはこれだな、と思いましたね。なんとなく「俺はバスの運転手になれたんだ」っていう感じがしたんです。
D:僕も最初は新しい車に乗せてもらったんですが、次がロッド式シフトレバーの車で、これが印象深いですね。古い方から数えて何番目という車でしたが、エンジンがよく回って、意外に速くて乗りやすかった。
A:僕は昔の貸切車かな。中2階のエアロクイーン(三菱ふそう製のスーパーハイデッカーバス)です。ハンドルは重かったですが、すごく高さがあってカッコよかったですね。その時の僕はいわば先輩のお手伝いで、このバスは先輩の車でした。
――20年以上の経験をお持ちの皆さんですが、これまでで特に苦労されたのはどんな点ですか。
B:貸切の先輩は厳しかったですね。いやあ、乗り越えましたねえ……(一同爆笑)。
D:僕の時はもう、そこまでではなかったかな(笑)。
C:僕もそこまでじゃなかったかな(笑)。
B:高速道路を走る貸切バスはスピードも路線バスとは全く違いますし、雪道を走ることもあるので、最初はハンドル操作からクラッチの使い方まで厳しく指導されましたね。この坂はブレーキ踏まずにエンジンブレーキで行けよとか、雪道はローギアで行けよとかね。とにかく安全に関しては口を酸っぱくして言われました。でも、それがあったから、いま自分がやってられるんですよね。
ベテラン運転士4人が語る経験談、いかがだったでしょうか。次回は、これまでに経験した忘れられないエピソードなどをご紹介します。高速道路を走行中、信じられない「あるモノ」に追い抜かれた話など、あっと驚く経験談も……。その正体とは?ご期待ください!
(文・編集:小佐野カゲトシ / 写真:伊藤岳志)
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